「くもん」の巻
公文というと学習塾を連想する人がいるかもしれないが、秩父には割勘のことを公文とか、公文勘定という言い方が戦後まで残っていた。個人的な事より地元負担金をいうことが多かったが。
この語源は上代の律令制度という日本最初の法律用語に行きつく。律令では官庁で出す公文書を公文といい、それを扱う役人をも公文とよんだ。平安時代になると律令制が崩れて、荘園制に移る。有力者は都にいて、地方に荘園とよぶ広大な私有地を持って部下を派遣したり、地元の豪族を任命して、租税の徴収などに当たらせた。その役人を公文とよんだ。公文は荘園の農民に割り当てて税金を集めることから、平等に金を出すことを、長い間、公文と言い慣わしてきたものである。
また、いつの世にもあることだが、都から遠いことをよい事に、公文は土地台帳をチョロマカシて、税金の余りを懐に入れた。そのとき、バレない様に役人たちが平等に分けて懐に入てたので、平等に分けることを公文といったという説もある。